実に3年ぶりに。
大阪大学社学連携プロジェクト ロボット演劇『働く私』
脚本・演出:平田オリザ
演出補:岩井秀人
テクニカルアドバイザー:石黒 浩(大阪大学)
ロボット側監督:黒木一成(イーガー)
出演:古屋隆太、井上三奈子、三菱重工業製「wakamaru」
協力:(有)アゴラ企画・(株)イーガー・三菱重工業(株)
舞台はお茶の間。若い夫婦、祐治と郁恵は2体のロボット、タケオとモモコと同居しています。せっせと料理を作るモモコは、この家でなくてはならない存在になっていますが、タケオは「働きたくない」と悩みます。話が進むにつれ、祐治も働くことができない存在だということが分かってきます。
日常生活の中にロボットがいる風景の中では、人とロボットとのコミュニケーションだけでなく、人と人、そしてロボットとロボットとのコミュニケーションが浮かび上がってくる、ということを、この短編劇は仄めかしています。(http://www.osaka-brand.jp/kaleidoscope/robot/index.html)
ロボットダンスは人間が踊るし、
ロボットロックは、近未来的なかぶり物をしたDaft Punkの曲だが、まああれも一皮剥けば人間だ。
人とロボットが交わるとき、
そこには新たな発見と感動がある。
しばしば演劇と人形浄瑠璃が比べられ、
人間の俳優は人形には勝てないと言われる。
なぜなら、人間には魂があるから。
それって、役柄の「入れ物」としては、致命的な欠陥だ。
傷物であればこそ、人間の方が人間に愛されるけれど。
人形は完璧だ。
では、ロボットは完璧なのか。
いや。
そんなことはない。
ロボットは人形とは違う。
ロボットには魂はないけれど、魂に似たものがある。
それをプログラミングと呼ぶか魂と呼ぶかはさておき、
どう動くかを自分で決めるロボットは、
ぎこちない。
そのぎこちなさが、
不完全さが、
きっと人間と似ているのだろう。
だから、人間とロボットの交流は、
ある意味で傷のなめ合いのようだ。
ほんとは交流している気がしているだけで、
人間の思い込みだとしても。
そこからいつも、新しいものが生まれてくる。
このロボット演劇は、そんな可能性を秘めていると思った。
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