2009年2月24日火曜日

「僕にはわからない」

もうすぐ死ぬの?

と笑われた。
もうすぐ卒業する先輩とお茶をしていて、
なんか最近昔の知り合いに会いたくなる、と俺が言うと。

そのときは一緒になって笑ったけれど、
当たってるのかもしれない。


俺は5月で、入っている学生団体をすべて辞める。


辞めることと死ぬことは、
気まずさと説明しにくさがよく似ている。
だから俺は、必死に論理武装をしたい。
言葉の殻に閉じこもりたい。


辞めるって何で?と聞かれれば、
院試のため。と答える。
ことにしている。

なるほど相手は、
あー。と納得ともため息ともとれない反応をする。
でも、それでは答えにはなっていない。
何のために院試を受けるのか、
進む先に何があるのか、わからない。

俺にはまるでわからない。


わからないことはわからないと、声を大にして言おう。と中島らもは著書「僕にはわからない」の前書きで宣言していたけれど、

そんな勇気があるひとは稀だし、
当の中島らもでさえ、年を重ねれば森羅万象を知っていると思っていたけど、ある日老人が「宇宙のことがわからない」という投書をしているのを見て、ようやく「わからない」と言っていいのだということに思い至ったという。

わかった顔をする人ばかりの世の中で、
俺も、わからないなんて怖くて言えない種類の人間で、
こうしてブログでぼそぼそっとつぶやくことしかできない。
ひょっとすると、俺が辞めるのは
「わからない」という精一杯の叫びなのかも知れない。


でもじゃあ、なぜ辞める?と問われて、
わからない、と胸を張って言えばいいかといえば、
そうではない気がする。


なんでって、
「わからない」ということもまた、
安易過ぎる、わかり方、なのではないか。


わかることとわからないことと。
世の中にはその2つしかない。
穿った見方をすれば、
前者は、わからないものを見えないフリをすることで、
後者は、わからないものを「わからない」とラベル付けすること。
わかろうとする努力の果てに、どっちなのかという結論を出さなくてはいけない。

でも、本当なのだろうか。
そういう単純な二分法で、
世界を半分にぶった切る権利が、俺たちにはあるのか。


ふと、
中島かずきの演劇「朧の森に棲む鬼」を思い出した。

市川染五郎演じる主人公ライが、どんな嘘でも瞬時に仕立て上げる「口先」を武器に権威に上り詰め、悪の限りを尽くす、という話。みんなライの舌先に翻弄され、嵌められていく。言葉の力、その重み。
そんなライに復讐を誓う集まりの中で、絶対殺してやる。的な感じで激高している人を、古田新太が、言うなと制止して、

「いや、言葉にするとヤツの土俵に乗せられてしまう気がしてな」

みたいな感じのセリフを言う。たしか。
中島かずきの演劇は、浅いようで実は深い。


言葉には限界がある。
言葉で言い表せるものしか、言い表せない。
わかるでもなく、わからないでもなく、
その間の宙ぶらりんな状態を
言葉にすることは、できない。


だから俺は、辞める理由を聞かれても、
ほんとは答えたくない。
言葉にすればきっと少しづつずれていく。
意味と言葉が離れていって、
できた割れ目に足をとられそうになる。

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