2009年11月3日火曜日

老いの中にある若さ、若さの中にある老い

まず、せりふを覚えられないわけですね。それに、昨日やったことがきょうできるとは限らない。昨日できなかったからきょうできないかというと、突然できたりする。それが翌日も持続するかと言うと、それは分からない。それが「老い」なんですね。(2009年11月2日 毎日新聞朝刊10面)
と、蜷川幸雄が紙面でインタビューに答えていた。
蜷川は、58歳から83歳まで42人が所属する「さいたまゴールド・シアター」の結成を呼びかけ、指導している。
それに関して聞かれての答えだ。


せりふを忘れては劇が進まない。
蜷川は、 舞台の端っこに座って、役者がせりふを忘れたときはせりふを教える役をしているそうだ。
それは会場からも見えている。
わかっていて、「老い」をさらけ出すのだと言う。

それまで「演劇」だと思っていたものをちょっと変形して、人生のあり方、老いのあり方そのものを全部さらけ出しちゃおう、と考えたんです。そういうふうに劇の枠組みを広げていくことによって、また違った演劇が生まれつつあるような気がします。

なんかうまく言えないけれど、
「老い」とは何かとか「若さ」とは何かとか、
あんまり深く考えずに言ってみるけど、
老いをさらけ出すというのは、
逆に若さを表現することではないのかな、と思った。

けれど「老い」とは、
世間がつくったレッテルに過ぎない。

42人の老人が飛び越えているのは、
物理的な「老い」そのものではなくて、
「老い」という偏見なのだ。

イメージを跳ね除けるとき、
そこには躍動する若さがある。


老いの中にある若さ。



一方で、鷲田清一の「死なないでいる理由」という本にこんな下りがある。

先にもふれたが、落合恵美子さんに教えてもらって、じぶんの大学で、あるいは集中講義に行った別の大学院で、学生に「あなたは大人ですか、子どもですか?」と訊いたことがある。あまりにきれいに教えてもらったとおりの結果が出るので驚いた。つまり、大学一年生はほぼ全員、大学院生でもそのほとんどが「子どもです」と答えるのである。ところが一方で、こらは精神科医の香山リカさんに教わったのだが、「じぶんはもう若くないと思うひと」というと、これまたほぼ全員、手をあげる。若者が幼児化している一方で、老いが早年化している。じつのところ、ひとは老いやすくなっているのか、それとも老いにくくなっているのか。
確かにそうで、
実感として、俺は大人じゃないけどもう若くない気がする。

若さの中にある老い。
俺たちは、それを肌に感じつつ生きている。


ということは、
老人に「若さ」が表現できるということは、
若者にこそ、「老い」が表現できるのではないかな、
と思ったりする。
こんなことを閃くなんて、やばい俺天才ちゃう?
と思ったりする。
具体的にどう表現するか、さっぱり思いつかないことは棚に上げといて。


思ったりして、
↓これに参加しようか財布と相談中。

生と死の共育ワークショップ vol.3 <老い>を表現する。
〜「老いかた」から考える「生きかた」〜
http://homepage2.nifty.com/citizenship/de0902.htm


うぐぐ、今月はお金がない。。。
でもめっちゃ行きたい。。。

0 件のコメント: