2010年2月13日土曜日

ボム・スケア

大学に行こうとしていたときのこと。


なんか警官がいる。
車道の真ん中に立っている。
というよりあれは、
立ちはだかっている。
何者も通さないという覚悟を背負って。

歩道を見ると、
人の胸の高さぐらいにテープが張っている。
反対側の歩道も同じく。
あの黄色と黒のしましまは、通行禁止という意味だろう。


「なんで通れないの?」と食い下がるひとだかりに、
警官が必死に説明している。

もうその説明に納得したか失望したひとは、
そこから少し遠巻きにケータイを手にしてしゃべっている。
ごめん、と約束の時間に間に合わないことへの謝罪を口々に言いながら。




京大病院のトイレで「ダイナマイト」と書かれた紙が張られたバッグが見つかって、
爆弾処理班が出動した話。

俺は、大学に用事があって自転車を飛ばしている途中で、
見事に足止めされた。
結局爆弾はなかったけど。



爆弾に足止めされたのは、
生まれて初めての経験だった。




こういうのを、
ボム・スケアというらしい。

↓と、ふとこのブログの記事を思い出した。
today's_news_from_uk

そういう「社会」で、「ボム・スケア」は、東京でいう「地震」や「集中豪雨」のようなものとして受け流されていた。実際に日常生活に影響はあるが、例えば約束の時間に遅れそうなときに「ボム・スケアで渋滞していてバスが動かなかった」とか、「ボム・スケアがあって地下鉄が止まった」という口実になるくらいのものだった。

誰も、それを直接とめることはできない。誰も、それをやめさせることはできない。それに対する戦いなど挑んでもしかたがない。とにかく政治的なアプローチが取られるべきである。こんなにこじれてしまったのも、政治の責任なのだし。

これは、IRAが停戦合意していなかった頃のイギリスの話らしい。

日本では爆破予告なんて嘘に決まっている。
それは、
日本が幸せな平和であるのが理由の半分。

そしてもう半分はというと。



ボム・スケアは、
半分は爆弾そのものへの恐怖で、
残り半分は爆弾を使う者への恐怖だ。

その爆弾を使う者というのは、誰か。
その社会にとって異分子であるひと、
多くは他民族のひとだ。
(と思われているだけで、それが事実かどうかはわからない。)

そして、爆弾を使う者は、どこにいるのか。
雑踏に潜んでいる。
その社会に溶け込んで、
息を殺しながら、ひとを殺す機会を伺っている。


自分とあまりに違う人間が、
自分とあまりに近くにいるから、
怖い。


じゃあ、
違う人間が近くに暮らしている社会って何かというと、
例えば多民族社会だと思う。


日本にボム・スケアがないもう半分の理由は、
その多民族さに無自覚なことじゃないだろうか。


仲が悪い民族がいないわけじゃない。
北朝鮮とか中国とか、あるいはアメリカとか。
いろいろ思い当たる節はあるでしょう。

なのに、
そういうひとたちは日本社会に全然入り込んでなくて、
(あるいは入り込ませていなくて、)
日本には「日本人」しかいない。
と思う、その思い上がり。

その勘違いが、
嘘っぽい平穏を支えている。


そんな嘘の平穏に浸るより、
ちゃんとリアルに仲良くなりたい。
とか病院前で足止めされながら考えてしまった。

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