2010年6月13日日曜日

信じること、信じないこと。

Bloggerがデザインをいじりやすくなってたので、変えてみました。
バックは、ウトナイ湖で撮ってきた写真。




こないだ受けた、飛騨高山のファシリテーション研修のことを教授に話すと、

「お前、大丈夫か?
まさか変な自己啓発セミナーに引っかかってるんじゃないだろうな!?」

と言われた(笑)。
詳しく説明して誤解は解けたけど、
でも確かに、ファシリテーション研修というのは怪しげな自己啓発に近い。


「いつも聞けなかったホンネが引き出せる!」
「ばらばらだったチームがまとまる!!」
みたいな過剰な文言と、
高い受講料(経費的には妥当でも)。
開催者側にそんなつもりはなくても
「こんなすごい講座を金出して受けたんだから、俺はすごくなったに違いない!」
とか思ってしまう。
それって、自己啓発じゃない?


もし講座を受けて、
「このやり方が正しくて他のはみんな間違ってる!」という錯覚が生まれるとしたら、
それは教える側にとっても学ぶ側にとっても不幸だ。
ファシリテーションにはいろんな側面があって、
いろんなやり方とか技術があって、
自分の文脈に当てはめないといけない。
その作業をしないなら、
何も学んでいないのと同じだ。

自分に知識を当てはめるのではなくて、
知識に自分を当てはめるのは、
それはそれで気持ちいい。
なんか頭が良くなった気がするから。
高いところに登って、みんなを見下せる気がするから。
そうやってみんな自己啓発セミナーに引っかかっていく。



うちの教授は、
最近の若者はそうやって何でも信じるから困る、という。

えー、そんなことないよ。
俺は何も信じへんもん。

と心の中でふと思って、
でも口に出すのはやめた。
たぶん、俺も教授も、
同じことを言ってるから。


信じるとか信じないとかいうのは、
きっと相対的な問題だ。

心の中に何か信じるものが少なからずあって、
それをモノサシにどれくらい信じるかを判断していく。
何でも信じるとか、
何も信じないとか、
信じる度合いが何でも横並びだとしたら、
それはたぶんモノサシがないからだ。

信じるものが何もないから、
信じることも疑うことも出来ないからだ。

なのに、
「信じるの? 信じないの?」
という二択を迫られる。
どれくらい信じるのか、という程度は問われず、
イエスかノーかだけが問題にされる。

例えば、少年ジャンプを開けば、
「仲間の大切さを信じるの? 信じないの?」
と問われる。
学校の教科書を開けば、
「戦争はダメなことでしょ? 違う?」
と問われる。
まるで踏み絵のようにして、
問い詰められる。

詰め寄られて俺は、
薄っぺらく「信じる」と答えるしかない。
そうやって「信じる」の安売りをするたびに、
「信じる」という言葉が嘘っぽくなる。
だんだん薄まって拡散して、
信じることも信じないこともあんまり変わらない気がしてくる。

だから不安になって、
闇雲に信じられるものを探してしまう。
使い捨てのように、
信じては疑い、疑っては信じる。
信じられるものがある、
ということだけは信じ続けたいから。


俺はでも、そうする内に、
「信じる」ことが信じられなくなる。
みんながどうかはよくわからないけど。
信じる勇気も疑う勇気もないまま、
ふわふわ生きている。

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