2010年6月22日火曜日

暮沢 剛巳、難波 祐子「ビエンナーレの現在―美術をめぐるコミュニティの可能性」

ビエンナーレの現在―美術をめぐるコミュニティの可能性ビエンナーレの現在―美術をめぐるコミュニティの可能性
暮沢 剛巳 難波 祐子

青弓社 2008-01
売り上げランキング : 254607

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


フィールドワークで越後妻有に行こうとしているので、ちょっと読んでみた。
演劇以外のアートに関する本をちゃんと読んだのは久しぶりなので、新鮮だった。

これは、アート全般の話ではなくて、
「国際美術展」の潮流にフォーカスしている。
市民参加、都市との関わり、美術の現在、グローバリゼーション…
いろんなキーワードが出てくるけどまとめきれないので気になったとこだけ。



ビエンナーレといえば、ベネチア・ビエンナーレが一番有名だ。
このビエンナーレは最も歴史があり、
万国博覧会をモデルにして国別の出展形式をとっている。
「美術のオリンピック」とも言われるこの場で、世界各国が文化的覇権を競い合う。

ベネチア・ビエンナーレは、世界のアートシーンをリードする一方で、
その性格上、大国主義や商業主義に陥りがちになる。

また、ベネチアはいわば覇権争いの戦場になるだけであって、
地元に還元されるものは少ない。
本には、

そのために通りの一階は全部ホテルになり、高級ブティックになってしまい、コミュニティーが存在していないと。かつてヴェネチアに住んでいた人は、とても住んでいられる状況ではなくて、みんな出て行ってしまうと。

と書かれている。


その反省として、1955年からドクメンタが開催される。
これは、ドイツで、おおよそ5年おきに行なわれている国際美術展だ。
ドクメンタでは、ディレクターを毎回選出し、
そのディレクターに展示内容やテーマが一任される。
賞制度はなく、美術の最先端を世界に紹介することを目的としている。

現在は、ディレクターを選出して一任するという、
このドクメンタの形式が国際美術展の一般的なかたちとなっている。



しかし、国際美術展がたくさん増えても、
スター性のあるアーティストやキュレータのみが選ばれてしまう。
また、地域的にも、欧米人や、欧米でアート教育を受けた人に偏ってしまう。
世界のいろんな地域でやっているのにその地域性は息をひそめて、
「どこにいっても同じ」という状況が起こりつつある。
いわゆる、グローバリゼーションという文脈から、アートもまた逃れられない。
ある意味で、国際美術展は文化的な侵略の装置だとさえ言える。


そして、アートは徐々に多様化している。
「○○アート」というような言葉でカテゴライズできなくなった。
ただ鑑賞するものから、参加するものになった。


均質化する一方で多様化もしている、混沌としたアートシーン。
そのカオスを、ひとすくいだけでも整理して意味付けしようとすることができるかが、
国際美術展に問われている。




あと、話は飛ぶけど、本の中のこの引用が印象的だった。

「アートがどんな形をしていようと問題ではない。大切なのはそれがどのように使用されるかだ。重要なことはアートのための場所を見つけ出すことで、作品の解説ではない」
ウェストの言葉を筆者なりに解釈すれば、美術作品には多層的な意味があり、文章によっては語り尽くせない。だからこそ、作品が空間や時間を超えてより多くの人々の目にふれられるよう、展覧会が開催されたり美術館に収蔵されたりすることには意味がある。評論の言葉がいかに栄えても、作品に与えられる物理的な場が貧相になっていくのでは本末転倒というものだ——言論空間以上に「現実空間に場所を」というこの考え方には、これまでにもうなずかされることが多かった。

言論空間より現実空間。
深い。

0 件のコメント: