2010年9月4日土曜日

ほほえみの国、に来てしまったわたし、のほほえましい日々 その1

とかいいながら、ほほえましいというか悩ましいことを書きます(微笑)
それなりにほほえましい日々を送ってるんやけど、
このブログに書くと悩ましくなるとか、あるやんね。
まあほほえましいことはまた次回ということでひとつ、手を打ってください。


3日前、こっちでのカウンターパート的なひとと会ってきた。
バンコクの公務員で治水にかかわる部署にいた人。
今は定年退職したけど、週3でアドバイザー的な立場で出勤している。

マクドナルドで待ち合わせだったのでそのままそこで話すのかと思いきや、
家まで招かれて、めっちゃ豪邸で、
マクドナルドで話すイメージトレーニングとのギャップに緊張を隠せない。

彼は、キリスト教徒だった。
なぜなのか聞くと、キリスト教と仏教の世界観の違いについて説明してくれた。
キリスト教では神の前にみんな平等だけど、
仏教は、前世での行いによって人間に優劣がつく。
だからタイでは、不遇に遭っている人がいても、
「あの人は前世での行いが悪かったからああなんだ」と片付けられてしまう。
人は本来、平等なはずなのに、不平等が是認されてしまう、
これは、インドから入ってきたけどタイ本来の文化じゃないと私は思うんだ、
と彼は言う。

その見方はしかし、日本の仏教からはあんまり想像できない。
そういう「自己責任」がどんどん拡張されていくのは、
責任がどんどん個人になすりつけられていくのは、
確かに日本でも同じだ。
けれど、仏教がそれに迎合しているようには思えない。
南伝仏教と北伝仏教の違いだとも思えない。
きっと、タイではたまたま仏教が言い訳に使われているだけだ。

不平等という得体の知れないものに向き合うときに、
それを何かのせいにするのはたやすい。
「それは仏教のせいだ」と責任をなすりつけてしまえばいい。
ちょうど、彼が嫌う人々が、
不平等は「前世の行いのせいだ」と責任をなすりつけるみたいに。

でもこれでは、責任のなすりつけ合いに過ぎない。
果て無き責任転嫁という、諸行無常。
何かのせいにしたところで、不平等を理解したことにはならない。


俺がタイでやりたいと思っている研究も似たようなところがあって、
ひとことで言えば、住む場所の平等にかかわる研究だ。
洪水で危ない場所と危なくない場所があって、
そこに住んでる人たちがいて。
危ない場所に人が住んでしまうのを、不平等と呼んで、
その不平等をなにかになすりつけるのはたやすい。
お金がないから、とか、知識がないから、とか。
でも、そんな浅いことを知るために大学院に来たんじゃない気がする。

何かのせいにすることと、
メカニズムを知ることの違いがわからないまま、
もう半年が過ぎたけれど。


そして、何が平等なのかというのも難しい。
彼は、水害危険地でも、水害のたびに補償をする仕組みがあれば平等だ、という。
でも、洪水のたびに補償がもらえるところと、洪水が起こらないところと、
どっちに住みたいかというとやっぱり後者じゃない?
じゃあどうしろっていうのって聞かれても分からないけど。

平等とか不平等とか、
それがいいのか悪いのかとか。
価値観にかかわる問題はすごく難しい。
タイの価値観を知って、
それを自分の価値観とすり合わせないといけない。

きっと、タイの価値観を知る前に、
自分の価値観をもっと確立しないといけない。
と思った。


まだまだ長い旅になりそう。

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