2015年5月4日月曜日

プログラマブルな表情

Handmade Electronic Music」を読み進めていたら、「人体と電子回路を結び付けた例」としてArthur Elsenaarの「artifacial」というプロジェクトが紹介されていた。

具体的にはこんな感じ。



本での紹介はこんな具合だ。
Elsenaarの顔に電極を貼り付けて、顔の筋肉に電気的刺激を与えて表情を変化させることで、いわばコンピュータのための「感情ディスプレイ」を作成しました。
でも公式サイトを見ると、こんなことが書いてあって、ちょっと印象が違う。
"The human brain is a tyrant, underutilizing the expressive potential of the human facial hardware."

freedom of facial expresion now!
人間の脳は暴君で、人間の顔というハードウェアがもつ表現のポテンシャルを台無しにしている。と言っていて、「感情ディスプレイ」を新しくつくった、というよりは、すでにある「感情ディスプレイ」をもっと自由に使っちゃおうぜ!ということらしい。

自由に?

一般的な感覚では、なんか逆だなーと感じる(よね?)。自分の脳みそで顔を動かしているときより、機会でムリヤリ動かすときの方を「自由」と呼ぶことには抵抗がある。

でも考えてみればたしかに、脳から逃れる方向を目指すことは正しい。人の心に土足で踏み込む暴言をぶつけられても笑顔でいたいし、通勤電車のやな臭いにも無表情でいたいし、葬式では誰かがバナナですべって転んでも笑わずに沈痛な顔でいたい。ひとは表情を手懐けたがる。

顔は、本能と意志にとっての関ヶ原だ。負ければ自分が何を感じているかが世界に晒されてしまう。勝たねばならない。自分の思い通りに顔を動かす自由を勝ち取らなければならない。それは鍛錬によってなのかもしれないし、機械の力を借りてなのかもしれない。手段を選んではいられない。

(みたいな感覚は、感情に先立って表情があるとかいう話に照らして考えると間違っているような気もするけど、詳しくないのであんまり立ち入らない)

ともかく、表情はもはや操作可能な対象とみなされているし、実はこれまでもみなされてきたし、これからますますみなされていくだろう。

たとえば、笑顔養成ギブスみたいなのはまだないだろうな、と思ったら既にあった。軽いディストピア臭がする。

Are The Kids Morose? Just Snap On The Electro Smile
http://www.geeky-gadgets.com/are-the-kids-morose-just-snap-on-the-electro-smile-5-02-2011/

俺は同じものを鍛錬によって手に入れようとして、中高の時は鏡の前で笑顔の練習をしてたりした。それでも大して効果はなかったわけで、無表情に定評がある今の顔に至っている。世が世なら、俺はこの笑顔養成ギブスみたいなもので感情表現のドーピングを受けていただろう。

それが悪いことだとは思わない。生命倫理に反することではなく、これまで操作可能だったものを別の方法で操作するだけの話だから。でも、自分の表情とは、感情とは何なのか、という哲学的な問いと闘うのはきっと骨が折れる。今のうちにfacial choreographerになる決意を固めておかないとなあ、なんて思った。

ARTIFACIAL expression is an art and research project that investigates the computer-controlled human face as a medium for kinetic art and develops algorithms for facial choreography.
(http://artifacial.org/)

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