2015年9月20日日曜日

安保法案反対デモの数字を俺は数えたくない。

もう忘れかけてるけど、8/30の安保法案反対のデモが盛り上がっていた。盛り上がり過ぎて、あれは何十万もが参加してた、いやたったの数万人だった、みたいな論争が謎の過熱を見せていた。

うんざりした。

個人的には、このツイートと同感だった。数えるのがそんなに好きなんですか。

人数は延べ人数なのか瞬間最大人数(?)なのかとか、どこまでを「参加者」と見なすかとか、数えることについてのテクニカルな話題は尽きない。それはそれで楽しいだろうし、数えるのが趣味のひとで集まれば一晩飲み明かせるだろう。

でも、世間は、そういう数字が多いか少ないかを判断する共通の基準を持ちあわせていない。たとえば、こんな記事がある。
9月12、13日に実施した調査で「安保法案に反対する集会やデモに参加したことがあるか」と質問し、3.4%が「ある」、96.6%が「ない」と答えたという。これを受けて産経新聞は15日の朝刊で「参加した経験がある人は3.4%にとどまった」と書いた。
(略)
だが、(略)素直に考えれば、これは大変な人数だ。全国の有権者1億人にこの数値を当てはめれば、安保法案反対デモの参加経験者が340万人に上る計算になる。
産経世論調査:安保法案反対デモの評価をゆがめるな - 毎日新聞
これって要は、多いか少ないかって見方によって違うよね?という話のような気がする。「多い」「少ない」とはなにかという基準がないのに、多いか少ないかによってものごとを判断することはできない。

たとえば選挙には、その基準がある。過半数より多ければ「多い」、過半数を下回れば「少ない」、関係ない人の名前を書いたらその票はカウントされない、みたいなルールがいろいろある。あらかじめそういう約束があるからこそ数には意味がある。数えることは力を持つ。

デモにそういう基準はない。100万人集まったら法案撤回します、みたいな約束はまったくない。

じゃあデモをやることにどういう意味があるのかというと、個人的には國分功一郎が3年前に書いていた原発デモについての文章がしっくりくる。
民主主義という制度も含めた秩序の外にデモは触れてしまう。そうした外を見せつけてしまう。だからこそ体制にとって怖いのだ。民衆が路上に出ることで民主主義が実現されるというのは、むしろ体制寄りのイメージではないだろうか。
(略)
 デモとは何か。それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。だから、デモに参加する人が高い意識を持っている必要などない。ホットドッグやサンドイッチを食べながら、お喋りしながら、単に歩けばいい。民主主義をきちんと機能させるとかそんなことも考えなくていい。お祭り騒ぎでいい。友達に誘われたからでいい。そうやってなんとなく集まって人が歩いているのがデモである。
『【再掲】「パリのデモから考える」(スタジオジブリ小冊子『熱風』2012年2号「デモ」特集号掲載)』
「秩序の外」があることを示すのに、数で闘う必要はない。むしろ、数こそが秩序なのだから、数ではないもので闘っているはずだ。数に拘泥している人は頭を冷やすべきだし、逆に、数を根拠にデモを笑っている人はもっとよく見たほうがいい。

もっとナラティブを拾いたい。俺は数えたくない。ほんとうのことを知りたいから自分で歩きたい。

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